月から落ちた死体の男
第ニ幕 母性
ハルカは食堂で紅茶を飲んでいた。
個室の二部屋分の広さのある食堂では、自動で調理された食事を食べることができる。食事で、栄養を考える必要などはなかった。不足分の栄養は、《ウォーム》での休眠中に自動的に補われ、取り過ぎた分も《ウォーム》が薬品によって分解してくれる。
ハルカはたっぷりと砂糖の入った紅茶をだらだらと啜っていた。決して意味なく時間を潰しているわけでは無い。彼女は、始まったから、待っているのである。
やがてそこに現れたのは、三十過ぎくらいの男だった。ハルカを確認すると、目で挨拶をして、カウンターの方へと向かう。そこで和食のセットを受け取ると、ハルカの方へずんずんと歩み寄ってきた。
「よう」
「こんにちは、コガさん」
コガはハルカの横に腰を下ろすと、秋刀魚の骨を取り始めた。この秋刀魚は実際には魚ではない。成分から合成した擬似食物の一種である。骨なしを注文すれば一切骨が無いものも作り出せるのに、何故この男はわざわざ骨を取っているのだろうか。
まあ、そんなことはどうでもいい。
「最近は何をしてお過ごしかしら?」
「ああ、紙を探してるんだが、知らないか?」
ハルカは不思議そうな顔をしながら、紅茶と一緒に持ってきていた紙ナプキンを差し出した。
「いや、違くてな。君は〈アルビューマー〉だったっけか。実はな、俺ら〈エンブリオ〉は程よく硬い紙に字を印刷してたんだ。ま、知らないならいい」
「何故その紙を探していらっしゃるの?」
「ちょっとした趣味のようなもんだ。君は日がな一日何してんだ?」
「特に何も」
ハルカは冷めてきた紅茶を一口飲んでから、コガの方へゆっくりと視線を流した。
「コガさん……あなたは正常な男性かしら?」
「は?」
「できるのかしら、ちゃんと」
コガは暫く呆けてから口を開いた。
「それは、つまりあれのことか?」
辺りを見回して、他に人がいないのを確認してから核心をつく。
「女を抱けるか……と?」
ハルカはゆっくりとした仕草でうなずく。
コガは薄く笑いを浮かべた。
「もちろんだとも」
その答えに、ハルカはそっと呟く。
「じゃあ、私の部屋へ行きません?」
「……その前に!」
コガが突然大声を出したので、ハルカはギョッとした。
コガは表情から笑みを消している。
「――避妊薬は、飲んでるよな?」
「……え?」
「避妊だよ。他の場合ならともかく、今はこういうことはしっかりしないとな」
暫く黙っていたハルカは、先程よりも幾分か冷たい声で言葉を発した。
「……産んだっていいでしょう?」
その一言に、コガはとたんに声を荒げた。
「よかない! なに考えてんだお前は!」
「子孫を残すのが生物の使命でしょ?」
「状況を考えろ!! こんな状況下で生まれた子供はどうなると思ってんだ! 今のここは、どれだけ不自然な状況だと思う!? 一人だけの子供、それはどうしても孤独になっちまう! ただただ俺たちの死を見せつけられる為に生まれてくるようなもんだ。そうやって生まれてきて、最後に独り残されることになるんだぞ?」
最後は本当に訴えかけるような口調になっていた。
それに対して、ハルカは子供のように反論する。
「じゃあ、私が死ぬときに殺すわよ」
「ふざけるな!!」
コガはテーブルを殴りつけた。その迫力に、ハルカも一瞬身をすくませる。
歯を割れんばかりに食い縛ったコガは、その隙間からくぐもった声を発した。
「ガキをてめぇの為に生むんじゃねぇよ。子供ってのは親の為に居るんじゃねぇんだよ」
「ええ、そうよ……私が子供の為に生きるのよ」
押さえつけてくるような視線に気圧されながら、それでもハルカは必死で反論した。だが、コガのプレッシャーによるストレスの為か、下腹部が妙なうねりを訴えていた。これ以上コガと対峙することは、自分の体に悪い。
ハルカは何とか立ち上がると、逃げるようにエレベーターに向かった。
彼女の背中に向かって、コガが怒鳴りつけてくる。
「早まるなよ! それはお前だけの問題じゃねぇんだからな!」
ハルカはエレベーターのドアが閉まりきってから、体の中に溜まっていた息を全て吐き出した。体からどっと汗があふれ、動悸は一向に収まりそうに無い。エレベーターの閉ボタンを押しながら数度深呼吸をする。
コガはああ言っているが、自分には時間が無いのだ。《ウォーム》の診断機能により、排卵が始まっているのは確認できている。今二十三歳の自分が六十歳まで子供を授かるチャンスがあるとしても、それは残り四百四十六回しか無いのだ。今までに百二十五回、全体の五分の一以上を失敗していると思うと、焦りが沸いてくる。人工授精は三度ほど失敗して、医者に子供が出来にくい体質だといわれて、腹が立ったので頼らないことにした。
エデンでは実際、男も女も生殖能力がひどく低下していた。子供を作ることは、三百年前の百倍も千倍も難しいといわれている。
彼女は、極端な少子化の進むエデン内において、子供を産むことについて強迫観念すら抱いていた。それはこの状況下に陥っても変わってはいない。
やがてエレベーターの扉を開くと、その正面に位置する部屋の扉の前に、一人の少年が立っていた。彼は後ろで開いたエレベーターに気づいているのかいないのか、振り向くことはしない。
ハルカは少年の名前を思い出そうとした。確か、ダカナ・レンヤである。十五歳。充分子孫を残すことのできる年齢のはずだ。
「こんにちは、ダカナ君」
名前を呼ばれて、レンヤはようやく振り返った。ほとんど感情を映していない表情からは一瞬、敵意を想像してしまったが、無感情というのは今時の子達にはよく見られることである。大した問題は無いはずだ。
「こんにちは」
やはり、冷めた響きのする言葉だった。明るくもなければ暗くも無い。その挨拶からは事務的な印象だけが受け取れた。
「デート? 若い子たちはいいわねぇ」
確か、レンヤの前にあるのは、アヤヒメとかいう子の部屋だった。若い男女が密会するのは自然なことだし、健全なことだ。
「そんなんじゃ……ありませんよ」
レンヤが始めて感情を露わにした。わずかに微笑みながら、目線をハルカから逸らしている。恥ずかしがっているのだ。
ハルカは本題に入ることにした。
「ダカナ君、私の部屋にこないかしら? 後ででもいいから」
「……何か用ですか?」
レンヤの表情は、またもとの無感情なものに戻っていた。
ハルカはレンヤの一言からたまらないなにかを感じ取った。今まで様々な男と会話をし、そのまま一夜をともにしたり拒否されたりしたが、レンヤの言葉には言い知れぬ手応えのなさがあった。
現在の子供たちの異性に対する興味が薄れているのは、感情に関する脳が退行しているからだと言っている学者がいた。ハルカは、的外れな意見だと思った。それはただ単に、両親という最も身近な男女が、全く幸せそうではないからだと思ったのだ。だが、レンヤから感じる無感情さは学者の意見に頷いてしまいたくなるものだった。この子は根本的な何かを欠いている。
だが、ハルカは彼を対象外にしたりはしない。問題はそんなことではないのだから。
「ダカナ君、女の子とセックスしたことあるかしら?」
「無いです」
子供相手、それもこの子相手に多少の言葉の違いは大差ないだろうとストレートに言った質問に対する答えも、やはりストレートだった。レンヤからは羞恥心や気まずさどころか、何の感情も見て取れない。
「じゃあ、私としない?」
普通なら、興味はある? とか言いながらだんだんと迫るのだが、この少年には即座に否定されそうなので、いきなり訊いてみた。
「しません」
実に明瞭単純。だが、ハルカも食い下がる。
「そう。でも、アヤヒメちゃんとはしたいんでしょう?」
じゃあ失敗しないように、私が教えてあげる、なんて言おうと思っていたのだが、レンヤの返事は大きく予想を外れたものだった。
「いいえ」
ハルカは混乱した。さっき見せた恥ずかしそうな表情は何だったのだ?
混乱のあまり、阿呆のように聞きなおしてしまった。
「ほんとに?」
「はい」
掴み所が無いとはいえ、嘘をついているようには見えなかった。
ハルカは頭の中で首を傾げながら、レンヤに別れを告げると自らの部屋に戻っていった。
彼女が船内ネットを覗いていれば少しは状況も掴めていたのかもしれないが、どうせ回線は繋がらないと思っていたこともあって、それはなかった。
やがて彼女は、ただぼうっとしている場合ではないと立ち上がった。後一人、船内には男がいた。
部屋を出てエレベータに乗り、一階層上がる。辺りを見回し、扉の横にあるコンソールに表示されている名前を確認する。キグイ サツ。これだ。
コンソールのボタンを押すと、すぐに返事が返ってきた。
『開いてますよ。どうぞ』
ハルカは一瞬呆然とした後、慌てて呼びかけた。
「あの、私はコノエ・ハルカです」
彼は自分を誰かと間違えている。あまりの警戒心のなさに、ハルカはそう思ったのだ。
『そうですか。どうぞ、コノエ・ハルカさん』
どうやら、そうではなかったらしい。彼は相手に関係なく、部屋に招き入れようとしている。恐ろしさを感じたハルカは、そのまま扉の前に立ち尽くしていた。すると、サツから声がかかった。
『……よく知らない男の部屋には入れませんか? 食堂まで下りましょうか?』
扉の前の映像は、コンソールに仕込まれている小型のカメラに写され、部屋の中の《ウォーム》に映し出されているはずだ。彼の目には自分はどのように映っているのだろうか。
「あ、いえ、おじゃまします」
扉を開き、中に入る。二重ドアの向こうの空間には、にこやかな表情でサツが立っていた。なんだか彼は、周りの空間から浮いているように見えた。そこにいることがひどく不自然に感じられるのだ。
「こんにちは、コノエ・ハルカさん」
「ええ、こんにちは、キグイさん」
「サツ、でいいですよ」
「わかりました、サツさん。今日は、少しお願いがあって参りましたの」
「私にできることならば何なりと言ってください」
多少は妙な印象を受ける相手だが、コガやレンヤとは比べ物にならないほど相手がしやすい。普通の変人、もしくは妙な一般人とでも言おうか。
「実は……私を抱いていただけないかしら?」
この一言にも、サツの笑顔は変わることはなかった。
「抱く、というのはつまり?」
「ええ、つまり、そういうことよ。よろしいかしら」
言いながら、ハルカは自分の着ているブラウスのボタンをいくつか外した。サツは一切の動揺を見せる事無く、笑顔のままで答えた。
「いいですよ」
「それで、もし私が子供を産みたい、といったらどうします?」
「どうしたら良いですかね?」
「味方になって下さらないかしら」
「わかりました」
答えながら、サツが片手をハルカの肩にかける。
ハルカはサツから肯定の返事しか聞かされていないことが気になっていた。それだけではなく、一切の細かいことを訊こうとはしてこないのだ。妙な寒気を感じた。だが、ハルカは男に抱かれることに、特別な意味を感じてはいない。相手がどんな人間であろうと、全く気にはならなかった。
そして彼女は、一晩中サツと交わりつづけた。自らの抱える器に、生命の雫を満たさんとして。
六歳のハルカは母の腹部が目立って膨らむまで、母の妊娠を知らなかった。
後からしてみれば、それは結局、母が妊娠をあらゆる人間から隠そうとしていたからだと断言できた。
ハルカが母のお腹を不思議に思い始めた頃から、両親の間で口論が絶えなくなった。あれも、産まれてくる子供のことだったのだろうと、後になればわかった。
元から仲のよい夫婦ではなかった。というか、この時期の口論以外で、この夫婦が顔を合わせて会話をしているところを、ハルカは見たことがなかった。そして、それが一般的な夫婦なのだ。
何故、このような男女が結婚するのだろうか。理由は大きく二つ。魔がさしたことと、生活に変化を持たせたかった、つまりは暇つぶしとである。こんなだから、離婚制度の無い結婚制度というのは年がら年中見直されていた。
今の世の中、毎年の出生率が〇・一を切るほどなのである。つまり、人口一万人に対して子供が一人以下しか生まれないのだ。なおかつ死亡率が百人、十パーセントという異常な事態。産めよ増やせよの政策として、離婚、中絶、避妊の禁止、さらには婦女暴行に対する刑罰の軽減など、人権を軽視するようなとんでもない制度が次々と出来上がっていた。ちなみに、死亡率増加の主要因である自殺者の増加に対しては、道徳教育の充実などといった手遅れで実の無いことしかしていない。
少子化対策の一つとして、子供一人に尽き多額の援助金が支払われていた。この時代、労働の義務は無く、人々にはもれなく月々一定の生活資金を交付される。それ以上の金銭を得ようとするときだけ働くわけだ。貰える援助金というのは、子供分の生活費とは別に支払われる、贅沢品用の多額の資金のことだった。
この政策はそこそこ成功したものの、子供一人に対する援助額があまりに多かった為、子供は一人いれば十分、という考え方も広まっていた。そしてそれが、多くの悲劇を生んだ。
ハルカの家で起きたのも、そんな悲劇の一つだった。
エデンでは本来、妊娠したからといって通院する必要は無かった。胎児の状況確認などは《ウォーム》で行えるし、自動診断もこなしてくれるからだ。ただ、出産数が異常低下を示してからは、流産や死産を万が一にもさせまいと、妊婦の入院を義務付けていた。
幼いハルカではあったが、妊娠したようなのに入院しない母のことは不思議に思っていた。それに、母が妊娠してからというもの外に出ないことには、はっきりと不信感を抱いてさえいた。今になれば、あの時に自分が何らかの行動を起こせば、結果は変わっていたのではないかと後悔している。
母は結局一度も病院に行く事無く、家のトイレで出産を果たした。両親には出産に関する何の知識もなく、とりあえず汚いので《ウォーム》に入れた。これは正解だった。少なくとも、その場で死ぬことはなかった。
ハルカは妹をとても愛した。ネットで知識を得、子育てをした。ハルカが生まれた時は離乳食が食べられるようになるまでは育児施設で育てられ、両親は時々会いに来るだけだった。なので、両親には乳児養育の知識も一切無かった。妹の世話はほとんど全てハルカが行っていた。
名前は両親に決める気が無い様なので、ハルカが決めた。自分の名に因んだものがいいと思い、候補に上がったのが自分の名を春香として冬香、夏香、秋香、それに春を残してハルミやハルなどだったが、最終的には英語で『遥か』という意味のあるリモートにすることにした。妹というのと語感が似ているのも気に入った。くだらない洒落だが、六歳のハルカは大満足だった。彼女はあまりに幼く、辞書を引いてその語を見つけたときに気づかなかったが、この単語には、遠い血縁、かすかな存在、酷薄な関係、等の意味があった。
ハルカは両親の態度に、少なからず恐怖を抱いていた。リモートに対して、全く興味が無い様でいて、時々とても煩わしそうな視線を向ける。リモートを守ってあげようと、固く心に誓っていた。
だが、ハルカ自身が小学校へ通うようになると、常にリモートを守っているわけにはいかなくなった。家に親とリモートだけを残していかなければならなかった。ハルカは毎日、家に帰ってリモートを見ると、たまらなく安堵した。幼い分、常識などに薄められていない、濃厚な恐怖を感じつづけていた。
ある日、恐怖は現実となる。
家に帰ると、リモートはいなくなっていた。母親は、事故で死んだといった。気の利いた嘘ではなく、理由はぼかされていても、はっきり死んだと言われたことが、ハルカに強い意思を与えた。
結局リモートは出生届も出されず、社会的に生まれないまま死んだ。今の法律においてそれは重犯罪であったが、露見しなければ裁かれることはない。出生率の異常低下の裏で、こういった事例が、いったいどれくらい起こっているのだろうか。それを考えると、ハルカは吐き気を催した。
自分は生き抜いて、自分の子供を愛そう。その意思は十何年とたった今でも、全く風化する事無く残っている。
彼女が子供を求めなくなる時は、彼女が死ぬときに他ならない。
ある朝目を覚ますと、ハルカの《ウォーム》には見慣れない警告文が現れていた。
『あなたは妊娠しています。詳細情報>』
ハルカは目を見張った。サツとの行為を始めてから、三日目の朝だった。
今まで何年と見放されていたのに、この状況下に至って、ついに私の元へと舞い降りてきたのだ。
ハルカは上体を起こすと、自分の下腹部を上から下へとゆっくり撫でた。そこにはまさに今、生命が宿っているのだ。
涙が出た。言葉は出なかった。
自分の人生に今、やっと本当の意味が生まれたのだ。
自分の腹部を抱えるようにして、目を閉じた。まだ何も感じられるはずは無いのだが、そこに生命をはっきりと感じ取ることが出来る気がした。
いつのまにか涙は引いていた。
ハルカは我が子への最初の一言を発した。
「ようやく会えたね……リモート……」
また、涙が溢れてきた。何故流れるのか。これは何の涙なのだろうか? ……色々な感情が、入り混じっているのだ。感動だろう。歓喜だろう。そして……不安が、あった。強い不安が、あった。それは子育ての不安とは少しだけ異なるものだった。
コガには強いことを言ったがしかし……彼女の両親は、幸せそうではなかったのだ。そして彼女も……
涙は溢れ続けた。不意に気付く。自分は何かを、悲しがっているのではないか、と。
その何かとは、つまり、取り返しのつかないことを想う気持ちではないか。今までの人生は本当に自分の人生だったのか。これからの人生は本当に自分の人生なのか。
自分はある考えに至り、悲しんでいるのかもしれない。今までの人生は、自分の両親への嫌悪や、当て付けの為だったのではないか。そしてこれからの人生は、嫌悪する両親と、自分は違うということを証明するための人生にはならないか。結局自分の人生は、子供のときに、あの両親の為に捧げることに決まっていたのではないか。両親への、復讐?
違うと、力一杯否定したかった。
泣くだけ泣いて、彼女は誓う。
それを誓うことだけが、自分の存在を、自分の意志を、証明することだと思った。
命を賭けて、子供を絶対に幸せにする。