月から落ちた死体の男

終幕 涙

 目の前で繰り広げられる光景は、どうとも形容しがたいものだった。
  唯一愛した女だった。全てを賭ける事が出来ると断言できた。
  彼女が、ミアが、目の前で、死んだ。
  あっけなかった。身体に穴があいて、倒れる。
  さっきまで、ヨワ・カミエにうたれた注射のせいか身体が熱く、沸き起こる変異に意識は朦朧としていたが、今、それは消え去っていた。
「彼女――」
  何か言おうとしたヨワ・カミエの言葉が止まる。
  消え去った異物感の代わりに、いまだかつて無い不快感が訪れた。
  涙が信じられないほど流れ、喉の奥から血液混じりの嘔吐物が、押しとどめようも無く溢れ出した。
  顔中ぐちゃぐちゃになって、気がつくと体中の傷が消えていた。
「……ロックと同じ能力……? いえ、それ以上」
  ヨワ・カミエの呟きなんて、どうでも良かった。
  涙の向こうで、キグイ・サツがこちらに銃口を向けるのが見えた。ミアを、撃った銃。
  身体は反応し、キグイ・サツの横まで一気に移動する。彼には何が起こったかわかっていないようだ。
「ミア……ミア……」
  口を開くと、その名前ばかり紡がれる。
  ギョッとしてこちらを向くキグイ・サツの腕を圧し折り、銃を奪うと、相手の眉間に突きつけた。
「お……まえは……ぅく……」
  彼に何か言おうとしたが、それは嗚咽によって言葉にならなかった。
  キグイ・サツは微笑む。
「レンヤ君、あなた方は真に愛し合っていた。良かったですね」
  撃ち抜いた。殺した。ひどく気分が悪かった。

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「レンヤさんのこと? 好きですよ」
  あれは、アヤヒメが勝手に訊いた質問の答えだった。
「うわぉ! やったじゃない、レンヤ!」
「アヤヒメさんのことも好きですし、皆さんのことを、愛しています」
「……そういうオチか」
「はい?」
  ミア、君はこんな奴らでも愛せるの?
「私は、皆が幸せになればいいと思います」
  こいつらの幸せも願えるの?
「無理じゃないですよ。だって、私は幸せですから」
  人を殺すことが幸せだというこいつらは、君を殺したんだ。
「皆」「幸せに」「愛して」「皆」「愛」「幸せ」
「私はこの世界を、愛していますから。レンヤさんに出会えた、この世界を」
  こんな世界を、君は愛して――

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 詰めのいい男だった、キグイ・サツは。
  あれから電力が流れなくなって、ドアは開きっぱなし、エレベーターの在った場所には非常用階段が現れている。
  食堂では、ヨワ・カミエが機械を分解して、手動で栄養物質を取り出せるようにしていた。カミエはそれを食べているようだったが、レンヤは食べようとは思わないし、実際食べていない。それなのに、なかなか衰弱しない。あの注射のせいだろうか。
  毎日ベッドに座り込んで、何を見ることもせず、何を聞くこともせず、何を考えることもせず、ただそこにいた。
  ある日、カミエがやってきた。
「あなたには全てを聞く権利があるわ。……いいえ、聞かなくてもいいから、言わせて」
  彼女の話は、始まった。
「まず、地球が環境破壊で住めなくなったというのは嘘。環境問題もどうにか出来ない程度の科学力じゃ、自立した生態系を持つこの船なんて作れるわけが無いでしょ?
  地球から飛び立った本当の理由は、逃亡し、時期を窺う為。
  地球には、私を首脳とする進化派と、昇滅至団に代表される死滅派がいた。進化派は、滅びの道を歩んでいる人間は、新たな種に進化するべきだという考えをもっていた。死滅派は、人類は死によってこそ救われるという考え方を持っていた。
  私たちの進化の手段は、スライムと呼ばれる薬品……いえ、生物だった。これは全ての生物の遺伝情報を有していた。あらゆる情報を持ち、あらゆる特徴を持たない生物。これの生成方法は天才、シャーメル=ピューリッツと、私だけが知っていた。まあ、私はシャーメルの助手だったロックの持ってた資料を解読できたってことなんだけど。
  ともかく、そのスライムは生物を食らうの。そこの基準がはっきりしないんだけど、ただタンパク質を与えても吸収しない。生きている生物だけ取り込む。スライムが少量だと、その生物は形を保ったまま、スライムに吸収される。スライムと同化すると言った方が近いわね。同化した生物は、生命力や、筋力が格段に上昇するし、再生能力すらも身に付ける。そう、ロックがそうだったように、あなたがそうであるように、ね。
  あなたに注射したのは、純粋なスライム。シャーメルが実験中、スライムを逃がしてしまった時から地球上に純粋なスライムはいなくなってしまった。いろんな理屈があるんだけど、要するに、新たな環境で作り出すしかない。だから、私はエデンで、眠りに着く前に作り出した。それは、人が進化する際に絶対に必要なものだから。
  進化派と死滅派の戦いは壮絶……でもなかったけれど、確実な人口の減少を引き起こした。私の計画は、人類全てをヒトスライムに進化させること。その為には、最初に進化をする大量の人間が必要だった。あの時の進化派の人間全員でスライムと同化しても、死滅派の兵器に滅ぼされる可能性があった。だから、私たちは宇宙へと逃れ、人口を……発芽する為の栄養、〈アルビューマー〉を増やした。エデンでの生活で、何か不便だと思ったところはない? それは船内の有機物を出来得る限り生きた人間にしようとしていたからなの。残念ながら、最終的に人口は減ってしまったけれど。
  気づいたかしら? この移民船は移民なんて考えていない。適当な設定よ。実験動物になる為に生きているなんて思わせない為の設定。本当は、地球の周りをぐるぐる回っているだけ。すぐそこにあるの、地球は。
  これで、私の知っていることは全て話した。
  純粋なスライムを取り込んだあなたがどうなるか、私にはわからない。見届けることも出来ない。コールドスリープは未完成のシステムだったから、私はもうすぐ死ぬわ。
  ただ、ミアさんももうすぐ死んだのかっていうと、それはわからない。可能性は高いけど、ロックは健康だったことから考えると、スライムの感染度が関係しているようね。地球の大気には、気化したスライムが漂っているんだけど、場所によって、濃度にだいぶ差があったし、どうともいえないわ。
  今更、どうでもいいことだけど」
  カミエが言い切ると、沈黙が降りてきた。レンヤに話をするつもりは無い。
  だが彼女は、立ち去りはしなかった。
  耐えるように俯くと、絞り出すような声を漏らした。
「私は……私は、辛い。あなたの苦悩は、私の責任だから。全ては私の計画。私の行動の結果。私の責任。全ての責任を取ろうと、私は誓っていたの」
  彼女は身に付けているブラウスのボタンを外し始めた。
「私に出来ることは少ない。でも、出来ることはするわ」
「やめろ」
  底冷えのする声で言った。
  だが、カミエは止めない。
「やめろ」
「なにもしないでも、ただ肌を合わせるだけで癒されることもあるでしょう」
  ボタンを全て外したカミエは、肩に手を触れてきた。
「やめろ!!」
  瞬間的に瞳に殺意を宿すと、手を伸ばし、彼女の首を締める。
  瞬間、彼女と目が合った。首を締められてなお平静な瞳。そこに宿っている光は、悲しみ、哀れみ、気遣い……
  急に、目頭が熱くなった。
  表情が歪む。
  彼女は優しく、レンヤの頭を胸に抱いた。
「う……ぐぅ……ぅっ……うぅ……」
  彼女の胸に頭をうずめると、嗚咽が漏れ出た。涙が溢れ出た。
  彼女の首を掴んでいた手からは力が抜け、その腕は彼女の腰に回され、震えながら、背骨が折れるのではないかというほどきつく、抱きしめた。
  いつまでも、嗚咽が止まることは無かった。

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 ただ、痛々しい震えだけが、静寂の中に響いていた。

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