ショウネン/ショウジョ世界譚
第一話 世界の終末
「おはよう、おめでとう」
階段を下りたところで母にそう言われ、北城サヤコはパジャマ姿のまま、ぽかんとしてしまった。
サヤコもそれを忘れていたわけではない。年相応に、昨夜から色々な想像を巡らせてもいた。しかし、あまりにテンポの速い祝福に、とっさに反応することができなかった。
自分の誕生日を祝われたのだ、ということに身体が反応するまでには三秒ほどを要した。
「あ……ありがとう」
「今日は、早く帰るからね。あんたも無駄な寄り道しないこと」
「別にいいのに。選挙の公示、もうすぐでしょ?」
「大丈夫大丈夫、お母さんみたいな秘書が忙しくなるのは、むしろ当選した後だから。先生なら当選は確実、むしろ何人身内をねじ込めるかが問題なくらいで」
ヒールの高いパンプスに脚をねじ込みながら、スーツ姿の母は楽しそうに言った。彼女ご自慢の先生の話を持ち出すとき、その表情には隠しきれない優越感があふれ出ている。サヤコはそんな母が好きだった。
「じゃあ、私先行くけど、サヤコ、気を付けるのよ。誕生日だってばれたら、いつ殺されるかわかったもんじゃないんだから」
「わかってるよ」
心配そうな表情で何度も振り返りながら玄関を出る母の様子は、サヤコにある不安を抱かせた――つまり、今年の誕生日プレゼントもまた防犯グッズかもしれない、という不安。
まあ、そんなことを心配してもどうしようもない。サヤコは母が作っておいた朝食を一人で食べ、制服に着替える。いつに無く、折り目を気にしてきっちりと着こなす。下着も薄いピンクで上品な刺繍の入ったお気に入り。長い黒髪を念入りに梳いてから、鏡の中の少女越しに、右目の下の黒子を撫でる。この黒子は自分なりのチャームポントだ。
今日は誕生日だ。誰かに殺されてしまうかも知れない。私の死体を処理する人に、バーゲン品の下着を見られたくはない。自発的な考えだったが、そこに母の躾を実感する。
足の爪の一本一本までバッファで磨き、最近買った透明のマニキュアを塗ってから、おろしたての靴下に足を通す。
まさか自分の足に繋がっている爪先を見るのがこれで最後になるとは予想だにせずに。
「おはよう」
「うん、おはよう」
家を出てすぐの所に、幼なじみの佐久間ヤチヨが待っていた。ヤチヨはいつものように、静かに微笑みながら挨拶をすると、その後でサヤコの耳元に口を近づけ、小さな声で言った。
「お祝いは、学校でね」
言った後で、誰にも聞かれていないことを確かめるように周囲を伺った。
「外で、誰かに聞かれたら危ないもの」
「うん、わかってる。ま、あたしも一応、護身グッズは持ってきてるんだけどね」
「絶対その方がいいよ」
サヤコの母が用意した特製の護身グッズについてその場で説明しているうちに、筋骨隆々な護衛八人に挟まれた生徒の集団がやってきた。点呼をしてから合流し、一緒に学校へ向かって歩き始める。
学校近くで一人の少年が合流してくると、サヤコとヤチヨの会話が止んだ。その少年、驫木コウタは二人に笑顔で挨拶をしてきた。
「やっ。二人とも、おはよう。今日も無事で何よりだよ」
「ほ、ほんとね。おはよう」
「おはよう、コウタくん」
コウタは男友達の隣に行き、なにやら楽しそうに会話をしながら歩き始めた。サヤコとヤチヨは、頬を紅潮させたまま、コウタに聞かれないようにひそひそと会話した。
「今日もコウタ、さわやか、かっこいい」
「うん、そうだね」
「はぁー、幸せー」
サヤコは居ても立っても居られず、ヤチヨの肩をぎゅーっと握った。ヤチヨが軽く身もだえする。
学校にクラスは一つしかない。十二歳から十五歳までの生徒が全て一緒に授業を受けている。それでもクラスの人数は二十六人だけだった。もともとは二十八人だったが、四月からの三ヶ月で、すでに二人が死んでいた。一人は親に殺され、もう一人は通り魔に殺された。
その日の朝、老齢の女性教師は教壇で瞳を潤ませながらサヤコの名を上げた。
「皆さん、今日は皆さんのお友達である北城さんが、無事に一つ、年齢を重ねることが出来ました。今の世の中では、これはとても尊いことです。皆さん、サヤコさんにお祝いを言いましょう」
バラバラと、「おめでとう」「おめでとうございます」といった歓声が上がった。
先生が目元の涙を拭い、その光景に頷いた。
「はい。でも皆さん、学校のそとで北城さんが誕生日だということを言ってはいけませんよ。誕生日というのは周りから見てキリが良いですから、何となく殺したくなってしまいますもの。先月亡くなった藤堂くんみたいになってしまわないよう、注意しましょう」
「はーい」と、皆が素直に返事をした。
学校内には厳重な警戒態勢が敷かれているから、子供達も気楽に誕生日を祝うことが出来た。
いろいろなお菓子や文房具、ぬいぐるみなどがサヤコの卓上に並べられた。そこだけファンシーショップの一角のようで、サヤコは恥ずかしそうにしていた。それらは全てサヤコへの誕生日プレゼントだった。
その中にさりげなく、一通の手紙が置かれていた。薄い竜胆の絵柄の入った、爽やかな便箋。
午前中の授業が終わって、お弁当も食べ終えたサヤコは、出来るだけさり気なく教室を抜け出した。そうして向かったのは校舎裏の一角、校舎の壁と高い塀の間に挟まれた、人の寄りつかない日陰の場所。
少し待っていると、コウタがやってきた。
「ごめん。待った?」
「んーん、全然。大丈夫」
サヤコの心音は、先ほどからずっと、苦しいほどに高鳴っている。情けないことに、指先や唇の僅かな震えが抑えられなかった。
コウタが、恥ずかしそうに前髪を掻き上げた。それを見たサヤコは、おお、と喉の奥でうめいた。コウタの仕草は、とても様になっている。あの前髪は、こうするために神様がお生やしくださったのに違いない。
「あ、あのさ、北城」
コウタが全身を強ばらせて、のぞき込むようにサヤコの瞳を見つめてきた。
酸素が足りない、サヤコは呼吸を僅かに荒くした。
コウタが、意を決して口を開いた。
「世界は滅んでしまいました」
サヤコは周囲を見回した。部屋の広さは、教室と同じ程度。モニターが付いた冷蔵庫のような機器が七、八台、無造作に立ち並んでいる。天井全体がぼんやりと光っているが、薄暗く、部屋の隅の方はよく見えない。壁は白く、光沢が無く、感触の想像出来ない質感だった。
その部屋の真ん中にある、機械で出来たワニの上に布団を敷いたような、ごつごつとした異様なベッドに自分は寝かされていた。服装は学校の制服ではなく、病院で着せられるような緩やかな前合わせのものだった。
目の前にいる、白衣の中年男は続けて言った。
「そう、見方によっては世界は滅んでいるのです。少なくとも、滅びかけている。それを救えるのは、あなただけなのです。北城さん、世界を、救えるのは、あなただけなのです」
さっぱり意味が分からない。サヤコの全身に徐々に恐怖が浸透していった。ここはどこだ、こいつは誰だ、私に一体、何が起きたのだ。
サヤコにそれらの情報を整理する暇を与えず、男は更に不吉な言葉を続けた。
「いいですか? 世界を救えるのはあなただけ、故にッ! 世界が滅びるのは、あなたの責任なのです! それを分かっていただく為、世界が滅んだ分、あなたの肉体を削らせて頂きました」
男の発言の意味は未だに分からなかったが、いくつかの危険な単語に、サヤコは反射的に自分の身体を見回した。すぐにはそれを見つけられなかった。余りにあり得ないことで、脳がそれを認識しなかった。だが、手を伸ばし、触れてみて、ようやく気がついた。体温が急激に下がったような気がした。骨の芯を、痛みに似た冷たさが走り抜けた。
サヤコの両足の、爪先の、指が、無くなっていた。そこには、のっぺりとした断面が覗いている。それが自分の足だとは信じられなくて、自分の頭から断面までを順に指でなぞってみた。確かに、繋がっていた。足の先を手で撫でた。骨の周辺を押し込むと、ずきんと熱い痛みが滲んだ。その痛みが、その光景に現実味を与え、脳を揺さぶった。
「ああ、あまり触らないように。無痛切除によって皮膚は張ってありますが、神経が浮かんで来ていることに変わりはありませんし、内出血を起こすかも知れません」
奥歯が震えた。お母さん、お母さん、助けて、お母さん。
「まあ、その爪先もまたすぐに削り取るかもしれません。そうなれば、内出血も意味はありませんが」
酸素が足りない。サヤコの呼吸が荒くなる。
苦しげなうめきが漏れると、男がサヤコの表情をのぞき込み、口を開いた。
「北城、俺と付き合ってみない? 俺のこと、好き? 俺は北城のこと、好きなんだよ」
サヤコは、期待通りの言葉に嬉しそうにはにかんだ。今日も世界中で人間が殺し合っているが、そんなこととは関係なく、ここにいる自分たちは幸せだと、確信することができた。
視界を閃光が走る。回想も消え去り、サヤコの脳は完全に暗転した。
意識を失っていたのは、僅かな間だけだったらしい。目覚めたサヤコに、変わらずそこに立っていた白衣の中年男はシロウと名乗った。彼は、サヤコを卒倒させるような語り方をしてしまったこを謝罪し、丁寧に、ゆっくりと、サヤコの表情を伺いながら説明を始めた。
前世紀のことです。人類は、戦争をなくす為の世界戦争を繰り広げました。それは一つには、資本主義からの解放戦争でした。富裕層は政治と癒着し、資源を独占し、物価を操り加速度的に富を集めて行きました。百円あげるから二百円くれ、と言っても貰えるわけはありません。が、百兆円あれば二百兆円が買えるのです。資本主義においては、資本を持つ者がルールを決められるのですから。
結果的に、勝者は勝ち続け、敗者は負け続けることとなり、世界の富の九十九パーセントを、数百人で独占するという構造ができあがりました。
奴隷制の崩壊と、同じ事が起りました。つまり、「人数の多い方が強い」という原始的ルールに則った、社会制度の破壊です。世界中の持たざる者の暴動を、支配層は抑えることが出来ませんでした。支配層は反抗に繋がる兵器や軍資を抑えているつもりでしたが、彼らが資本で支配した人間の末端、最前線の現場で直接手を動かし労働する者達は、持たざる者でした。彼らは管理者を支配していましたが、管理者によって管理されるべき労働力には刃向かわれたのです。
そうして起こった戦争はやがて、宗教へと飛び火しました。資本という共通価値により人間を見るようになっていた人々には、いまだに国家対立と戦争を引き起こす宗教問題は脱却すべき争いの火種に思えました。世界的な宗教狩りが行われました。ニーチェは「神は死んだ」と言い、世の中に多大な影響を与えましたが、宗教狩りにおいて我々はついに「神を殺した」のです。
そして我々はついに戦争を卒業したとされています。確かに、国家間の戦争から部族間の武力闘争といった内紛に至るまで、我々は一世紀に渡り戦争状態を経験せずに過ごしてきました。強権的な政府による管理市場は極端な資本家を生み出さず、可能な限り自動化された産業を基盤に安定した社会保障を実現しました。ですが、その結果は決して楽園ではありませんでした。
今世紀、我々が迎えたのは激減する出生率と急増する異常犯罪を抱えた退廃的な世界でした。年間死者数は戦時中すらも超え、わずか百年あまりで人口は半減しました。尋常ではありません。
この原因として、様々な要因が挙げらました。ある者は、人間が仮想現実に依存した事により精神が無機的になったためであると言いました。あるいは宗教観の喪失が、人間に自分こそが至上の生物であるという自惚れを与え精神を破壊したのだと言いました。あるいは幼い頃から勝負事の無い社会を見せつけられた結果、欲しいものも、守るべきものも持たない人間ばかりになってしまったのだと言いました。
本当の原因が何なのかは分かりません。確かなのは、今の世界は乗り越えるべき困難も、迫り来る危機も存在していないのに、ただ人々の雰囲気が悪い、とてもとても悪いがために、滅びようとしているということです。
さて、歴史の授業はここまでです。次はこの場所についての説明です。この施設は、ATPと呼ばれる特殊なポイント上に建っています。このATP内で、特殊な素養を持った人間、アークと呼ばれる彼らが思ったこと、考えたことは、地球上の全人類に伝播します。つまり、ここでアークが怒れば、全人類が怒ります。ここでアークが誰かを好きになれば、全人類がその人を好きになります。
これは科学的に証明可能な現象です。そして、この研究施設はその現象を用いて、世界を救済することを目的としています。これまでに、合計七人のアークが招致されました。ですが、世界は未だに救えていません。
あるアークは自分が大好きだったために、研究所全てが彼女の指揮下に置かれる事態になりました。独裁を恐れた我々は、アークの影響が世界に広がる前に彼女を追放しました。
またあるアークは、研究所の男性職員に恋をし、女性職員に嫉妬しました。無差別に広がった嫉妬の網は、凄惨な乱殺事件を引き起こしました。
七人ものアークの失敗を経て、我々は理解せざるを得ませんでした。一人の人間である限り、世界のことより、自分のことを大事に思うのは避けられないことなのだと。
故に、世界の滅亡を自分のこととして考えて貰う為に、我々は決めました。北城さん、世界中の殺された人間の数に応じて、あなたの肉体を削り取ります。五千人殺されるごとに一グラム。
これは世界政府に認められた、公式な政策です。
最後にシロウは、何でもないことのように一言を付け加えた。
「勿論、あなたの保護者の承認も得ています」
この部屋に連れてこられてから、三ヶ月が経った。
サヤコの両足は、根本から無くなっていた。
「次からは、手ですね。指先からですから、不便になると思いますが、世界の状況もそれくらい困窮していると分かって頂ければ幸いです」
無痛切除を終え、ベッドの拘束具を解きながら、シロウはそう言った。シロウに肌を見られることへの羞恥心は消え去っていたが、屈辱だけは変わらなかった。真新しい薄皮の下のじんじんと痺れるような感触が悔しくて、サヤコは瞳に涙を溜め唇を噛んだ。
シロウが立ち去ってから暫くして、黒い看護服を着た、小学生くらいの幼い少女が入ってきた。
たどたどしい様子で、サヤコの脈拍や体温を計測する。三ヶ月前に初めて会った際、名前を聞いたらクロとだけ名乗った少女。彼女はどうやらサヤコの体調管理を担当しているらしい。
「サヤちゃん」
今まで自分の名前以外、一言も口にしたことがなかったクロが、今日に限ってはサヤコに声をかけてきた。
「な、なに?」
「サヤちゃん、あなたのこと、誰も助けに来てくれないね」
「……え?」
胸の内を見透かされたかのようだった。
サヤコはずっと、助けを待っていた。コウタは優秀な少年で、サヤコにとってのヒーローだった。ヤチヨだって、やるときはやる女だ。私の扱いを承認したという母親も、バックには大物政治家がついているのだから、事態を覆してくれるかも知れない。とにかく、誰かが助けに来てくれると信じていた。
信じてはいたが、三ヶ月は長かった。外との連絡はシロウが遮断している。不信の種は、確実に育っていた。
「今に、助けに来てくれる」
「そうだったら、良いね」
「助けに来てくれる。助けに――」
言葉が続かなかった。喉の奥でうめく。助けて、コウタ、助けて。
混濁した意識が、ドアの外での激しい物音で覚醒した。サヤコには開けることの出来ない扉が開き、シロウが後ろ向きに倒れ込んでくる。倒れたシロウをまたいで部屋に入ってきたのは、紛れもない、コウタだった。コウタは私を見て、あの日のように微笑んだ。爽やか。格好良い。死ね。
私を抱きかかえるコウタ。そうか、私の足は、コウタがだっこしたときに重すぎないように、神様が切り取っておいたに違いない。死ねコウタ。意地の悪い神様。
そうして研究所の外へと逃げ出した私たちは、一緒に暮らし始めた。世間から逃げ回りながらの生活だったが、ヤチヨを、裏切り者、はじめとした、クラスメイトのみんなも手助けしてくれた。サイテー。そのうちに子供も生まれた。コウタはふざけるな、男の子と冗談を言い合っている。コウタに抱かれながら、五体満足な自分の子供を見ていると、ああ、私はもう死んでも良い、とさえ思えてくる。幸せのありかをもう嫌だ確信することができた。
目が覚めたサヤコは、まどろんだ意識の中で、先ほどまでのコウタの温もりを思い出していた。いつのまにか側に居たクロが、サヤコの表情をのぞき込んでくる。
「今日も、また、夢の続きを見たの?」
サヤコは黙っていた。受け答えをすることで、意識がはっきりするのが嫌だった。夢うつつのままならば、コウタや息子と一緒に山中で暮らしている自分が現実で、相変わらずワニのようなベッドに寝かされて、両腕も肘の上まで無くなっている今の自分の方が夢なのだと、信じることが出来た。
「ねー、サヤちゃん」
クロが子供らしい口調をすると、妙に耳に粘つく、嫌な印象を受けた。
「子供の名前、教えてよ」
すー……っと、意識が覚醒してしまった。サヤコの子供に、名前は無い。息子は息子。それだけだった。一見それらしく見える世界でも、間違いなく夢であるということを、クロは一言でサヤコにつきつけた。
「……出てって。今日はもう、検査は全部終わってるでしょ?」
クロが満足そうに微笑んで、立ち去った。
嫌だ、クロは、嫌だ。夢の中で、突然コウタが憎くなるのも、ヤチヨに対して怒りを感じるのも、きっとクロがいるせいだ。
サヤコは布団の中で、息子のことを考え始めた。夢の世界をより完璧にする為に。
息子の名前は、ジュウジにしよう。初めて歩いたのは一歳半で、最初に喋った言葉は『ママ』。それから、それから、それから……
肩の近くまで削り取られても、ぼぅっとしたまま、ジュウジ、ジュウジとつぶやくだけのサヤコを見て、シロウは難しい顔をした。
「……北城さん、このままでは、世界は本当に滅んでしまいます」
ちらりと自分に向いた瞳で、言葉が届いていることだけは辛うじて感じられたものの、それ以外に反応らしい反応はない。
シロウは手元のファイルを開いた。荒療治になれば良いのだが、と胸の内で呟いた。
「あなたの肉体がどうこう、というだけの話ではないのです。いいですか? 北城さんの通っていた学校、爆破テロに遭いました。生徒は女子数名が重傷、残りは全員死亡しました」
「……え?」
理解できない、という表情だった。
「とても悲惨な事件でした。犯人は未だ不明、またいつ同様の犯罪が起こるか分かりません。こんな事件をなくす為にも、北城さん、心の底から、平和を祈ってください」
「嘘……よ……」
今すぐこの場から逃げ出したかった。しかし、今のサヤコに出来ることは、腰をひねることと肩口に僅かに残った肉の突起をうねらせることだけだった。顔を覆いたい。でも、腕が顔まで届かない。
今のシロウの言葉は、コウタの死を意味していた。
サヤコの夢が、本当に夢になってしまった。好きな男と結婚して、子供を産んで死ぬ。それはもう、決して手の届かない世界だった。
シロウの背後で、クロがぽつりと、しかしサヤコには鮮明に聞こえる声で呟いた。
「ヤチヨさんは、生き残ってるみたいね」
ヤチヨの名前に、ぴくりと身体が反応した。
「ヤチヨがやったの?」
口に出してから、はっとする。なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からない。
呆然とするサヤコを見つめ、シロウは首をひねった。
「佐久間ヤチヨさん、ですか? 生存者の中に居ますが、どうして彼女が……いえ。やはりこのことは、話さない方が良かったのでしょうか」
その言葉はサヤコには聞こえていない。サヤコはどこを見るでもなく、ぶつぶつと、口の中でヤチヨに対して呼びかけていた。
「サヤちゃん、どうしてヤチヨさんが、コウタくんを殺すの?」
クロの問いかけに、サヤコは反射的に答えようとした。だって、コウタは、あれは。
気恥ずかしい空気の中、とりあえず教室には別々に戻ろうと話し合い、サヤコとコウタは校舎裏で別れた。その後で、サヤコはふいに、放課後に一緒に帰る約束がしたくなって校舎裏へと引き返した。
そこにはすでにコウタは居なかったが、どこからか、声が聞こえてきた。不吉な予感など全く感じずに、サヤコはその声を辿った。
校舎脇に取り付けられた非常階段の踊り場に、コウタと、別の男子が座り込んでいた。
「本当に告白したのかよ。すげーな」
「別に、自分の思ったままに行動しただけだよ」
自分のことだ。サヤコはこれ以上この会話を聴くのは失礼だとも思ったが、同時にコウタの飾らない本当の気持ちを聴けるのではないかという期待と、いまやコウタの恋人である自分にはこれを聴く権利があるのではないかという考えに捕らわれてしまった。
その為に、聴きたくない言葉を聴いてしまった。
「じゃあ結局、佐久間さんはどうするんだよ?」
ヤチヨの名前が出てきたことに、ぎょっとした。
「ヤチヨ? ヤチヨにはもう、言ってあるよ。サヤコと付き合うから、僕らの関係は秘密にしてくれって。おとなしい、良い女さ」
ぼくらのかんけいは、ひみつにしてくれ。その言葉が、瞬間反射的な想像をサヤコにもたらした。
「ひでぇな。じゃあ佐久間さんは、表面上は北城さんとにこにこしながら、影では裏切り続けるわけかよ」
「まあ、実はそれが出来るほど、辛抱強い女じゃないけどね」
訳も分からないまま、サヤコの瞳に涙が溜まっていく。
「いいじゃないか、僕らの平均寿命、知ってるだろ? 短い人生だもの。どろどろの三角関係で死ねるなら、僕は後悔しないな」
相変わらず、爽やかに、格好良く、コウタは微笑んでいた。
怒りと、悲しみと、憐れさで、頭の中がぐちゃぐちゃだった。ヤチヨを探そう、ヤチヨに全部話して、二人で泣こう。そして、二人でコウタを馬鹿にしてやろう。びんたの一発もくれてやろう。二人でコウタの鼻を明かしてやろう。出来ることは、それしかない。
サヤコは走り出した。教室に向かって。しかし、サヤコは教室に辿り着くことは出来なかった。
ぬっ、と現れた二人の黒服が、昇降口前でサヤコを呼び止めた。
「北城、サヤコさんですね? 先生も交えて、お話ししたいことがあります」
不吉なものを感じ取って逃げ出そうとしたが、結局彼らに無理矢理捕らえられてしまった。そうして、目が覚めたらここにいて、足の指は消えていた。
「酷い、男だったのね」
クロがサヤコの頭を撫でながら、目を細めて言った。サヤコはいつの間にか、回想の内容を口に出していたらしい。部屋の中にシロウは居ない、クロとサヤコの二人きりだった。
「あなたに頼れるのはもう、同じ傷を持った、ヤチヨしかいないのね」
ひどく面白そうに、クロはそう言った。
「ヤチヨに会いたい?」
ヤチヨに会いたい。そう思いながら、サヤコは眠りについた。
夢の中には、コウタはいなかった。サヤコはヤチヨと二人、小さな家で暮していた。サヤコが、なんとなく恥ずかしくて身の回りにおけないかわいらしい物たちを、ヤチヨは当然のように並べている。ヤチヨのわざとらしくないセンスで作られた女の子らしい部屋が、サヤコは好きだった。
最初から、ヤチヨと暮していれば良かったのだ。私たちは子供の頃から一緒で、喧嘩もせず、傷つけ合いもせず、仲良くやってこれたのだから。
愛息子のジュウジも、ヤチヨによくなついている。荒んだ世の中だけど、この子だけは悪い男にならないように、しっかり育てなきゃね、とヤチヨと確かめ合った。
この子の父親、そんなものは居ない。
「シロウ先生に頼んでみなよ」
クロがそう言うので、次にシロウが来た際、サヤコは数ヶ月ぶりにシロウに口を利いた。
「ヤチヨに会いたいの。会わせてください」
最初の頃に何度も懇願した時と同じように、シロウは申し訳なさそうな表情で頭を掻いた。
「あなたの抱く個人的な感情は、アークにどう働くか分からないんです。世界が平和になったら、いくらでも会わせて差し上げますから」
「ヤチヨに会わせてくれなきゃ、世界を平和にしないわよ」
「そんなことを言わないでください。世界が滅べば、それだけあなたの骨肉を削らなければならないのですから」
そう言われると、両腕の断面がうずく。未だに、身体が小さくなっていくのは恐い。思わず黙ってしまった。
次に来たクロは、強い調子で言った。
「粘らなきゃ駄目よ。世界が滅んで困るのはあなただけど、あなたが困って困るのは、シロウなんだから」
よく分からなかったが、次にシロウがやってきたとき、ヤチヨに会いたいことを強く訴えた。
「ヤチヨに会わせてくれないなら、世界なんて、私の身体なんて、要らない」
シロウは靴の爪先で床を何度も叩いていたが、やがて顔を上げた。
「わかりました。ただし、条件があります」
全身を強張らせるサヤコに対して、シロウはいつになく柔らかな表情を見せた。
「ヤチヨさんと会わせて差し上げる代わりに、日頃からもう少し口を利いて頂きたいというか、その、そうですね、私と友人になっていただけると、ありがたいのです」
「いいわ、ええ、いいですとも」
シロウが表情をパァッ、と輝かせた。
飼い主に褒められた犬のようだと、サヤコは思った。なんだか可愛げがあって、しかもヤチヨに会わせてくれるというシロウは、実はいい人なのではないかとサヤコは思った。
ヤチヨがこの部屋に現れたのは、シロウが承諾したすぐ翌日のことだった。ヤチヨの顔面には包帯が巻かれ、右足にはギプスがはめられ、松葉杖を突いていた。
ヤチヨはサヤコの姿を認めると、いつものように目を丸くした。
「サ、サヤコちゃん?」
「ヤチヨ?」
ベッドの歪さが、今はサヤコの体型を隠すのに役立っていた。
「ああ、久しぶりね、ヤチヨ、怪我は大丈夫?」
ヤチヨは、歩くのが辛そうな様子で、サヤコに近づいてきた。今なら分かる。彼女の弱々しい様子は、実にわざとらしい。
「うん、ちょっと大変かな。サヤコちゃんは引っ越してて、かえって良かったね」
「そうね……」
私って不幸、どれだけ同情してくれても良いのよ、というオーラがヤチヨから発散されている。
サヤコはヤチヨが十分に近づくと、もぞもぞと芋虫のように身体を蠢かせて、布団から這い出て見せた。
「サヤコちゃ……ッイャ――――ッッ!!」
ヤチヨが目と口を限界まで開いて、喉が裂けんばかりに絶叫した。
「この部屋で毎日毎日毎日毎日身体を切り刻まれたお陰で、爆弾に巻き込まれずに済んで本当に良かったわ」
ずるり、ずるり、ベッドの上を這って近づくサヤコにヤチヨは一歩も動けず、大声でわめくことしか出来ない。
「いやッ、いやッ、許してッ、サヤコちゃん! こんなッ、こッ、こんなことになるなんて、私、思わなくて、いやッ、いやァー!!」
「許して? 許してって、何? ヤチヨ、許してなんて、そんなこと、よくも、よくも、よくも言えるわねッ!!」
ずるり、ずるり、ずるりと、腕のない肩の肉を蠕動させ、サヤコは更にヤチヨに近づく。
「あんたのせいよッ! あんたのせいでこんな目にあってるのよッ!!」
ベッドから落ちると、ぼてっ、という肉らしい音がした。背後にいたシロウが慌てて近寄ってきていた。
「ヤチヨ、ヤチヨ、ヤチヨォォー」
ヤチヨの隣には、いつの間にかにクロが居た。ヤチヨの耳元で、クロが何かをそっと囁いた。ヤチヨの顔が恐怖に染まる。
「来ないでぇ、よぉ、化け物ォッ!!」
ヤチヨは涙で顔面をぐしゃぐしゃにしながら、サヤコを踏みつぶそうと足を振り上げた。
タタン、と乾いた音が響く。シロウが片膝を着いた姿勢で、ヤチヨに拳銃を向けていた。ヤチヨは頭から噴水のように血液を飛び散らせながら、前のめりに倒れた。
サヤコの頬も血に濡れる。思いの外にさらさらした血液に、サヤコの中のどろどろとした感情が流れ去る。後に残ったのは、サヤコ自身にも予想外の感覚だった。それは、何とも言えない爽快感だった。
今となっては、はっきりと思い出すことができた。自分はあの日、黒服達から逃げ出した先で、ヤチヨに会ったのだ。
地の利を活かして黒服たちを振り切り、息を切らして校舎脇を抜け、すぐの曲がり角でヤチヨに出くわした。
「ヤチヨ! 今ちょうどあなたに、ああ、それどころじゃないの」
「サヤコちゃん、なんか、サヤコちゃんを探してる人たちが居るよ?」
いつも通りの穏やかなヤチヨに、事態の恐ろしさを伝えなくてはと早口でまくし立てる。
「そう、そうなの。あの連中、普通じゃないの。私、タクシーで家に帰る。先生もあの連中の手先だけど、お母さんならなんとかしてくれるから。だから、そう、ヤチヨ」
一息に喋る内にこれから取るべき行動をはっきりと決めたサヤコは、頭の中で逃走ルートを思索した。学校を出てすぐの所にタクシー乗り場はある。塀伝いに校舎を回り込めば、そこまで逃げられるかもしれない。
もはやコウタのことを切り出せる状況ではなかった。それに、いざヤチヨを目の前にすると、自然と今朝までと同じ、親友としての接し方になってしまう。
「だからヤチヨ、お願い、あの連中を引き留めてくれない? 校舎内に逃げたとか言ってくれれば良いから」
「待って、サヤコちゃん。どういうこと? 何があったの?」
「だから、私にも分からないけど、追われてるのよ! ここで推理している暇は無いの。私は行くからね」
「待って!」
ヤチヨがサヤコの腕をつかんできた。
「待って、サヤコちゃん。タクシー、この時間に停まってるかな? 家に帰っても、おばさん、居るの?」
「そんなの分かんないけど、行くしかないでしょ! 離して!」
「待って、ちょっと待って、サヤコちゃん、説明して欲しいんだけど――」
サヤコはこの段階に至って、ようやくヤチヨの瞳に異常な光を認めた。サヤコの腕を握るヤチヨの手には、もはや痛いくらいの力が込められている。
黒服たちのものらしい足音が近づいてくる。サヤコは、ヤチヨが自分に悪意を向けていることを感じ取ると、悔しくて、悲しくて、腹が立って、涙さえ浮かんできた。
「ヤチヨ、やめて! コウタくんのことは、後で話し合お? ね?」
「サヤコちゃん…………何のこと?」
サヤコの肩が、背後からつかまれた。振り向く口元に、スプレーが吹き付けられる。とっさのことに、噴き出すガスを拒むことは出来なかった。
目の前にいるヤチヨは、目を丸くする驚いたときのいつもの表情で、わざとらしく震える声で言った。
「やだ、サヤコちゃん、私」
だから、ヤチヨが殺されたのは当然の報いなのだ。
いつの間にかに、サヤコはベッドの上に戻されていた。床には僅かに濡れた跡があるだけで、それ以外にヤチヨの痕跡は残っていなかった。サヤコの身体に付いた血の跡も消えていた。
サヤコは酷く疲れていた。思考が纏まらず、いくら寝ても寝足りなかった。
ヤチヨへの復讐を終えたサヤコの精神は、もはや枯れ始めていた。これまで影からサヤコを支えていたのは、無自覚に燃えさかる復讐への負の情念だったのだ。
サヤコが眠りから目覚める間隔は急速に長くなっていった。
夢の中で、サヤコの同居人はジュウジ一人だけになっていた。父親も居ない。二人っきりの母子家庭。世間は敵だった。お陰で、二人の絆はとても強いものとなった。
ある日、シロウが家に現れた。相変わらずの白衣姿で、中学生になったジュウジをだっこする。
「息子さんの身体を削る承認を頂けますか」
目覚めたサヤコの身体は、溺れたように、ぐっしょりと濡れていた。気持ち悪い汗。
「また目覚めてしまったのね、サヤちゃん。眠り続けることができれば、少しは気が楽でしょうに」
クロが居た。楽しそうにサヤコの瞳をのぞき込んでいる。
「いいから、身体を拭いてよ」
「可愛そうね、サヤちゃん。あなたこの何もない部屋に放り込まれる前から、な~んにも持っていなかったのね」
「……」
クロの顔から視線を逸らす。クロのにたにたとした笑いは、可愛そうとは言っていない。
「ええ、もう、憐れね。誰もがみんな、あなたなんか死んだって構わないって思っていたのよ」
「黙れ」
「あなたはシロウの慰みに、切り刻まれるしか使い道のない女だったんだわ。馬鹿みたい、あはは、笑える」
「クロッ!!」
サヤコが全身で跳ねた。背筋が爆発し、首が大きく振られる。そうして、自分の顔をのぞき込んでいるクロの喉元に噛み付けるだけの高さと速度を生み出した。
クロが驚いたように目を見開く。サヤコの牙が根本までクロの肉に食い込む。
歯が折れる前に、肉が抉り取れる。サヤコの顔面に血飛沫が降り注ぐ。雨のようだった。すっかり忘れていた、この世には天気というものがあったのだ。
口の中の気持ち悪い肉をはき出す。クロは、二歩、三歩、四歩後ろに下がって、横向きに倒れた。ベッドに平行になるように横たわり、顔はこちらを見ている。
ひゅー、ごぽごぽ、ひゅー、ぽこり、血だまりを泡立てながら、クロの唇が震える。大きな藍色の瞳はサヤコを捕らえ続けていた。長い髪が血に濡れて、顔に張り付き、あるいは床に広がり、ぼんやりとした天井の照明を妖しく反射している。黒い看護服が、この日の為に着ていたかのように、よく似合っていた。
サヤコはじっとそれを観ていたが、クロはもう動かなかった。喉の赤黒い肉の断面と鮮やかな流血による装飾以外は、普段と何も変わったところの無い姿。サヤコには、クロがどのタイミングで死んだのか、あるいはまだ死んでいないのか、まるで分からなかった。
「クロ?」
呼びかけたら、少しだけクロの顔が歪んだ。まだ生きている。
じっ、と見つめてから、もう一度、
「クロ?」
呼びかけると、今度は動かなかった。
あまりに見つめすぎた為に、クロの瞳の中にいる自分が目に付いた。
「クロ、あっちを向いて死になさいよ」
クロはもう、動かなかった。
いつの間にか眠っていたらしい。目が覚めると、ベッドの上の血の海は消えていた。自分の身体にも血の感触はない。床の上も綺麗になっているのだろうと、視線を横に向けると、クロだけは変わらずそこに横たわっていた。見開いた瞳にサヤコが映っている。
ヤチヨをあれほど迅速に消し去ったのに、どうしてクロはこのままなのだ。
シロウが来るのを待ち、腕にいつものことをされてから、サヤコはお願いをすることにした。
「シロウ、クロの死体を片付けて?」
「……くろのしたいって?」
きょとん、とした表情でサヤコを見下ろす。
「……? そこに転がっているでしょう? ここの職員の、クロよ」
サヤコが視線で示した先、確かにこちらを見つめ続けているクロが横たわっている辺りを確認してようやく、シロウは息をのんだ。
「ほら、ようやく気付いた?」
「北城さん……その、決して北城さんを疑う気持ちがあって、言うわけではありません。僕は自分の知覚を完全には信用していませんし、北城さんの発言を大いに信じていますから。ですがまず第一に、僕はそこに、何も見つけることが出来ません。そして第二に、この研究所には、クロなんていう職員はおりません。そもそもこの研究所は高度に自動化されており、職員はATPへの耐性試験に唯一合格することが出来た私一人しかおりません」
今度はサヤコが驚く番だった。
「馬鹿言わないで、クロよ! あなたと一緒にこの部屋にいたこともある」
「一緒にですか? うぅん……」
サヤコはシロウの言いたいことを理解した。シロウは無駄な言葉を長々と連ねてはいたが、要するに、今まで狂わずにいたのが不思議なくらいであったサヤコが、ついに当然のように狂ってしまったことに対して、動揺しているだけなのだ。
もちろん、サヤコは自らが狂っているとは思わない。どちらかといえば、日々自分の身体を削り続けるシロウの狂気をこそ信じた。
「シロウ、誘導するわ。後ろに三歩、右に一歩よ」
「あ、はい。後ろに、三歩。一、二、三歩。そして右に、一、歩っと」
いつも真面目で律儀なシロウに、こういうことをさせるのは犬を躾けるようで少し楽しかった。サヤコは、シロウが見えないクロの死体に蹴躓いて悲鳴を上げるのを期待した。しかし、シロウはクロの死体とは全く関係のないところに立って、困ったようにサヤコを見ていた。
「北城さん、死体というのは、どのあたりですか?」
「もっと左よ。左に、三歩くらい」
「左に? えぇ、一、二、三」
おかしいことは分かっていた。さっき右へ一歩と言ったばかりで、今度は左へ三歩など、死体が移動していない限りあり得るはずがない。
しかしクロの死体はまたもシロウとは全く別の場所に有った。もっと手前に来ている。
シロウを何度誘導しても、決してクロに辿り着くことはなかった。クロは場所を何度も移動して、しかしその瞳は常に変わらず、サヤコを捕らえ続けていた。
ここに来てようやく、サヤコはクロの死体に恐怖を感じていることを、はっきりと自覚した。
事態は悪化していた。右を向けば右に、左を向けば左に、クロの死体があった。それはいつも、サヤコのことを見つめていた。このままでは、天井にクロの死体が張り付くのも時間の問題のように思われた。
クロから逃げだす先は夢の中しかなかった。シロウが居ない時間のほとんどを寝て過ごすようになった。
夢の世界は、最初の頃のような世界の形を成していなかった。それは、大きな振り子が周囲を破壊し尽くす暗闇の中や、世界中の人間が処刑される処刑場、出口のないオーブンのような灼熱の石室などだった。脅かされる精神の中、サヤコは夢に現に、うわごとを繰り返し続けていた。
ヤチヨが死んだ。良かった。ごめんね。助けに来てくれる。きっとヤチヨ。コウタが殺され。あれは嘘よ。私が殺したかった。死にたいの? いいえ。ジュウジ、いじわるを言わないで。上手くやれる。私は死なないの? 行くって? もうやめて。ジュウジ、助けて。ええ、だからきっと、まだ大丈夫。
「わかった、お母さん」
サヤコには手がないから、肩に手を置いて、ジュウジは話しかけてくれた。五歳程度の男の子で、顔は、ああ、はっきり目の前にすると馬鹿げたことに、シロウに似ていた。もう十ヶ月以上、シロウ以外の顔を見ていないのだから、それは仕方がないことに思えた。
「僕がいるからね、お母さん。一人じゃないよ。お母さんがどんなになっても、僕だけはそばにいるからね」
「そうね、そうね、ジュウジがいれば、大丈夫」
胸の上に顔をのせるジュウジの髪の毛に頬を寄せ、発する温度と共に匂いを吸い込む。感情を超えた命の仕組みが、僅かにでも動いてくれるのを感じた。
シロウが、カルテを指で弾きながら言った。
「胴体は輪切りにするわけにはいかないから、ここから先は、臓器切除の形を取りましょう。腎臓を一つ、肺を一つ、あとは生殖器」
耳から入ってきた言葉が、心臓を締め付ける。
待って、待って、やめて、おねがい、やめて。
ジュウジ! 辺りを探すのに、いつもそこにいてくれたジュウジが見つからない。どこ、どこ、どこにいるの。
取り乱すサヤコに、シロウは申し訳なさそうに首を振った。
「世界は、それほどに困窮しているということなのです。世界を救えるのはあなだだけである限り、あなたを救えるのもまたあなただけなのです。今からでも、世界を救ってください」
私にはジュウジがいるの私が今まで将来に希望を持てたのは身体が無くても取り返しが付かなくても希望は未来に子供が居るの子供が欲しいの子供が要るの私の未来はジュウジを殺さないでお願い助けて助けてくださいお願いしますから助けて助けてください誰か誰か誰かお願い助けてねえ
だって、ジュウジは、あなたの子供でしょう!?
シロウがマスクを外して言った。
「肝臓が働いているうちは、不足する分のホルモンは経口摂取しましょう。いまの不安や苦痛は、平和を祈る糧にしてください」
サヤコは自分のお腹に意識を向けた。
そこから何を持って行かれたのか、嫌だ、思い出したくないッッッ!!
サヤコは
そうしてすぐに
次の日からシロ
でもどうしようも
……………………
……………………
遠くで音が鳴っている。
ひゆぅん おおぅん
遠くで鳴る音以外、
なぁんの音も、聞こえない。
辺りはやっぱりなんにもなくて、
ぼぉんやりと、白いだけ。
でも一つ、黒い点が一つ。
それはこちらを見ている黒で、
動かない、黒。
サヤコはもはや、耳に聞こえる言葉にも、目に映る光景にも意味の宿らない、穏やかで平坦な世界で生きていた。
ときどき白い人が現れる。
ふわわぁん、ふわわぁん、
何か言う。
私の肉を取る。骨を取る。
全部取れ。根こそぎ取れ。
私を取れ。
私は要らない。
私は私が要らないの。
ふたたび白い人が現れる。
白い人は明るく広がる。
「ついに世界は平和になった」
「世界は平和になったんだよ、北城さん」
さぁー、と渦を巻いた白い人は、
もう私を取らない。
暖かくて優しい。
白い人は何度でも来る。
「これからは僕を君のお父さんにしてくれないか」
「お父さんと呼んでおくれ」
「愛してる愛してるよサヤコ」
何を言っているかわからないけど、
それはきっと少し嬉しい。
そんな気がする。
その日は私のお誕生日。
お誕生日は大事な日。
白い人は忙しい。
私は嬉しい。
白い世界で白い人が白いものをくれる。
だから私もきっと白。
黒は遠くから見つめてくるだけ。
クロエ、クローム、クロニウム。
黒? 黒なんて知らない。
二人で一緒。
お誕生日――
「世界は滅んでしまいました」と、かつてシロウは言った。
轟音と衝撃がサヤコの部屋を貫いた。人間の創造した破壊の力の着地音だった。
部屋の扉が、苦しそうな音を立てて倒れた。
風と揺れ。
ものが壊れる。
びゅごぉーん、びゃぎゃーん
青が吹き込む。
青が
青……青い……
青い空が見えた。
その光景は、悪い冗談のようにしか見えなかった。青い空の下にあるのは、まぎれもない、世界の終末だった。
「……お父さん。ドアの外まで、連れて行って。……早くッ!」
シロウは辛そうな表情でサヤコを抱えると、一歩一歩、ドアへと近づいた。
ドアの外、本来は廊下があったであろう場所が、破壊され、屋外になっていた。そこから見える景色は、今までサヤコが見たことも、想像したこともないものだった。
灰色と土色の混じったクレーターだらけの大地は、全てが灰燼と化して露わになった地層に降り注いだ廃墟の成れの果てだった。遠くに見える良く見慣れたはずの山々は、何度も崩落を繰り返したようで斜面をいびつに歪ませている。所々で吹き上がる煙と、遠くから聞こえてくる甲高い推進音。着弾音。
気が遠くなるほど久しぶりに見た空だけはひたすらに青く、広く、深く、滅びた大地にとても良く映えていた。
「これは嘘だよ。世界は平和になったよ」
シロウが、不自然なまでに、いつも通りの様子で言った。
「お父さん……ッ!」
サヤコは、理解した。
ATP、アークの力は確かに存在し、自分はそれを行使して、世界に平和を取り戻した。だがしかし、自分にとっての世界とはすでに、あの薄暗い一室のことだったのだ。シロウと自分の、二人だけのことだったのだ。
ふいに寂しさに襲われて、サヤコはシロウに強く額を寄せた。
シロウだけが、残った。
キスして欲しい、と思った。
「サヤコ、キスしよう」
サヤコが望んだとおりに、シロウはサヤコと唇を触れ合わせた。
おかしいな、お父さんになって貰ったはずなのに。普通、父子ではこんなキス、しないんじゃないのかな。
おかしな娘だわ、私。そう思うと、シロウがおかしそうに笑った。
愛して欲しい、と思った。
「愛してるよ、サヤコ」
流した涙は、シロウが拭ってくれた。













