とろっこ強盗
(1)
田んぼの真ん中を通る線路の上に、男が三人立っていた。
拳銃を手にした男が言った。
「強盗をするときに、一番大事なのはどう逃げるかだ。いいか。銀行に押し入ってお金を奪うなんてことは、実は簡単だ。ただ、そこからどう逃げるか。これが難しい」
「じゃあ、どうするの?」
訪ねられた彼は、瞳を輝かせ、嬉しそうに言った。
「トロッコを使う」
トロッコ? 話を聞いていた二人が同時に、不思議そうに繰り返す。彼はますます嬉しそうにして話を続けた。
「そう、トロッコ。お金を奪った後、トロッコに乗って逃げるんだ。そして港に着いたら、船に乗って外国に行く」
「トロッコ」
「外国」
驚きの表情を浮かべる二人が、ゆっくりとその言葉を繰り返す。どちらも彼らにとっては現実味のない言葉だったので、現実の嫌いな彼らは、すぐにそれらを好きになった。
徐々に笑みが浮かんでくる二人の顔を眺め、彼は満足げに続けた。
「外国に行けば逃げられる。お金があれば幸せになれる。俺たちは幸せになるんだ、外国で。トロッコで」
トロッコで、と二人がまた同時に繰り返した。
現実では事実を知ることすら容易ではないが、これは小説なので事実を記す。彼らは善良だったが、ただ恵まれず、要領が悪く、運がなかった。
(2)
それほど賑わってはいないが、七分に一本は電車が通るくらいの駅。
人気を避けたホームの隅で、新聞に顔を隠しながら、ミノルは腕時計を確認した。前に見たときから三十秒しか経っていない。溜め息をつく。次にミノルは、手にした鞄を確認した。異常はない。ずっと持ったままなのだから当然だ。溜め息をつく。逃げ出したくなった。ああ、と喉の奥で呟く。いやだな、と頭の中で呟いた。
だが逃げ出すわけにはいかないので、ミノルはじっと耐えた。耐えはしたが、たまらなくなって腕時計を確認し直した。まだ、さっきから三十秒しか経っていない……
ミノルは顔を上げた。トイレに行っておこうと思った。
計画の実行までは、あと二十分余り。
『――不審物を発見した場合には、駅員または警察署までお知らせください』
そんなアナウンスに少しだけ自嘲の笑みが浮かんだ。
「これが爆弾だ」
そう言ったイクトから鞄を渡された。
「電車の中に置いてくるだけでいい。爆発はしない仕組みになってるけど、駅員に発見されれば大事件になる。全線停止しての車両点検、とか」
道路は検問が敷かれ、駅は見張られている。そんな中のトロッコによる逃走は、裏をかくようなものでなければならない、騙すようなものでなければならないのだとイクトは言った。ミノルはその通りなのだと思った。だから頷いた。
「わかった。爆発はしないの?」
「しない……けど……絶対じゃない」
爆弾を作ったのはノゾムである。指示を出すのはイクトである。だから、爆発したときのことを考えるとミノルが設置するのが一番だった。責任は分散した方がいい。
「いやならやめよう」
「……大丈夫。やるよ」
背後で黙っていたノゾムが、ミノルの肩に手を置いた。振り向くと、ノゾムが心配そうに覗き込んでくる。
「いいのか?」
寡黙なノゾムがそう言ってから、ちらりとイクトと視線を交わして、もう一言。
「やらなくてもいいんだぞ」
ミノルは笑って、頷いて見せた。
「いいよ、やる。俺は頭が悪いから、じたばたしか足掻けないし」
そう言いながらも、手にした鞄――爆弾の重さに、背中が寒くて寒くて仕方なかった。
「あのー」
ホームから階段を下りたところに発見したトイレに一歩踏み込んだ瞬間。声をかけられて、ミノルは大いに驚き、硬直した。
声をかけてきたのは、登山用らしい大きなリュックと、肩掛けのドラムバッグを背負った青年だった。彼は奇妙に腰を引いたまま、言った。
「トイレはどこでしょう」
片足だけトイレに踏み込んだままで、ミノルは混乱した。
「……ここじゃ、ないんですか?」
「ここがトイレなんですか?」
混乱が続く。爆弾を抱え緊張した自分は、トイレさえも正しく判断できなくなっていたのだろうか。
「違いますっけ?」
「さあ……でもトイレとか、便所とか、何も書いてませんし」
言われてみればそうだった。ただ、紳士のシルエットが描かれているだけで、どこにも文字による表記はない。看板に点字が付いてはいるが、ミノルには読めない。
なんだか不安になってきた。ミノルは、ええっとーと呟き、傍を通り過ぎようとしているサラリーマンに声をかけた。
「あのすみません、トイレってどこでしたっけ」
右足をトイレに踏み込んだまま訪ねるミノルに、サラリーマンは顔を歪ませた。
結局ミノルと青年は、並んで連れションをしていた。
「本当、ありがとうございます。オレあんまり外出しないもんで、わかんなくて」
外出は普通にするが緊張の余り思考力が低下していたミノルは、何も言わず黙っている。
「あ、じゃあオレ、行きますんで。本当、ありがとうございました」
結局最後まで黙ったままで、ミノルは青年を見送った。
一足遅れて用を足し終えたミノルが、手を洗い、出口へと向かう。すると床に何かが落ちているのに気が付いた。布製の子供っぽい財布。
それが先ほどの青年のものだと確信したミノルは、自然と財布に手を伸ばした。が、寸前で手が止まる。ゆっくりと拳を握りつつ、自分の立場を思い出していた。
もとよりネコババなどする気はない。だが、自分がこれから爆弾を仕掛ける凶悪犯であることを考えると、落ちている財布を届けるなんていうのはどう考えても間違っている。ここは素通りするべきなのだ。
だがそこで、ミノルの元来の正直さ、善良さが顔を出す。切り捨てることの出来ないそれらが、ミノルの思考とぶつかり合ってせめぎ合った。
何秒か、息を止めて財布をじっと見つめる。混乱とさえ言える思考が、ある一点で真っ白になり、手が財布を掴んだ。
周囲を見回したが、誰もいなかった。
「俺たち、何か悪いことをしたか?」
爆弾を受け取ったミノルに、イクトが言った。
「したと思うなら、やめよう、こんな計画。悪いことしたか? 俺たち、誰か、一人でも」
ミノルもノゾムも、何十分もかけて考えた。でも、自分たちが悪いとは思えなかった。
「俺たちは悪いことなんてしてない。悪いのは、他人を蹴落とす他人、他人を食い物にする他人だ。……でも、強盗をするからには、俺たちも悪くならなきゃならない。俺たち以外を信じないようにしよう。気遣わないようにしよう。俺たちは幸せになる。他人を蹴落とし、食い物にすることになっても。……できるか? できないなら、やめよう」
ミノルとノゾムは、数秒だけ考えた。それは既に充分考え、結論を出していた問いだったが、それでも数秒考えた。きっとこの先も、この問いに即答することはできないだろう。
ミノルが答えた。
「俺は、悪いことでもやるよ。三人で幸せになるために」
「本当、ありがとうございます!」
ホームの隅の隅で見つけた青年は、とても喜び礼を言うと、あ~、と声をだしつつ、財布から取り出した写真を嬉しそうに見つめだした。
「……彼女?」
すぐに離れるべきだと考えていたのに、ミノルはなんとなく声をかけてしまった。青年が緊張しているためにかえってミノルがリラックスできるその空間に、ちょっとだけ留っていたかった。
「はい。……あ、いや! 文通相手、です」
「文通って、メールじゃなくて? 手紙の?」
「はい。いや最初ネットで知り合ったんですけど。……実は初めて会うんです、今日。あと二時間後」
「へえ」
幸せそうな青年。
ミノルは自分と彼のギャップを感じ、気持ちが悪くなった。短く息を吐いて、やっぱり早く立ち去ろうと考えた。
「じゃ、俺はそろそろ」
「あ、本当ありがとうございました。危うく、彼女に渡すお金をなくしちゃう所でした」
トイレでトイレの場所を訊ねるよりも奇妙なその台詞に、振り返ろうとしていたミノルは動きを止めた。
「彼女に渡すお金って?」
「いや……彼女ちょっと今お金に困ってるらしくて、少しだけでも力になれればと思って、オレ貯金持ってきてたんです。それ全部、財布に入れてたもんだから」
ミノルには言葉が返せない。すると青年も黙ってしまった。
ミノルが口を開こうとした瞬間、通過電車が来た。重量感ある音がやむまでの間、改めて二人は黙り込んだ。そして音が遠ざかった。
「オレのこと、騙されてるって思ってます?」
口を開いたのは青年の方だった。いつの間にか、青年の表情からは温かみが消えている。
うつむき、視線を上げない青年に対して、ミノルは正直な所を答えた。
「……思う。やめといたほうが――」
「オレだって。怪しいとは思いますよ。でも、もしかしたら本当かもしれない。本当に困ってて、それが、救えるかもしれない。そう思うと、お金くらい……」
青年が本音を吐いた。吐くことで楽になれると思って。だがミノルは改めて言った。
「やめときな」
「いいえ、だって――」
「やめとけって」
「だってあなたも財布届けてくれたでしょう」
一見して脈絡のない台詞。だがミノルには反論できなかった。だからかわりに、青年の目を見てはっきりと、強い口調で言った。
「俺はお人好しは嫌いだ」
それだけ言うと振り返って、ミノルはその場を立ち去った。
時間どおりに電車がくる。不思議とミノルは落ち着いていた。一番人の少ないホームの端にいたが、六両編成の電車が大分行き過ぎたので早足で追いかける。最後尾の開いたドアに乗り込むと、荷物ラックの上に鞄を載せ、二度、その鞄の腹を叩く。車両の中を見回し、そこに乗っている乗客に心の中で謝罪すると、素早く降車した。
そこに先ほどの青年がいた。
「あの、お礼が言いたくて」
唖然としているミノルに、包装紙に包まれた平たい箱が差し出される。
「これ、彼女に買ってきた梅干なんですけど、一杯買ってきたんでこれ、どうぞ。あの、ありがとうございました」
発射ベルの鳴る中、ミノルに箱を押し付けると、青年はミノルの横を通って電車に乗り込んだ。
「あなたと話せて、オレ良かったです。なんか気持ちが固まりました」
発射ベルがやむ。トイレで財布に伸ばした手を思い出す。自分がどうするべきなのかはわかっている。どうした方が得なのかもわかっている。だが。
排気音と共に、ドアが閉まろうとする。
その瞬間、兄弟と言うべき親友二人の姿を思い出し、ミノルは決断した。
がん、とドアに足が挟まる。開きなおしたドアをくぐるミノルに、迷いはなかった。
(3)
銀行の裏口、ノゾムは立っていた。ただ立っていた。
空は目も眩む曇り空。濃淡のないその曇り空に、なぜだか気分が楽になった。
見張り役は楽だなぁと考える。今更にそれがいやになった。
イクトは言った。
「集合時間に遅れた奴は、置いて行く」
ミノルとノゾムは頷いた。
「だから、俺が遅れたら置いて行け」
ミノルとノゾムは頷かなかった。
イクトはじっと二人の顔を見た。二人はじっとイクトの顔を見た。ミノルが頷いた。
「わかった」
ノゾムも黙って頷いた。
「ノゾムは特に、サイレンが鳴ったらすぐに逃げろ。俺は、もしかしたらお前と合流する暇はないかもしれないから、そしたらトロッコで落ち合おう」
「トロッコで」
ピーポーピーポー。サイレンが聞こえた瞬間、ノゾムは奥歯を噛み締めた。そして逃げ出した。
出来るだけ車の通れない道を選んで走る。三十分もあれば集合場所に辿り着けるはずだ。集合時間は四十五分後。大丈夫。
いくつ目かの角を曲がる。そこにあった人影を無視して走り去ろうとするノゾムに、声がかけられた。
「待って!」
立ち止まり、振り返る。声をかけてきたのは、そこにいた高校生くらいの少年だった。そして、彼はよく見ると奇妙な格好をしていた。木の枝に吊るされたロープの先端を輪っかにして、首にかけていた。そして背もたれのない椅子に乗っていた。
「僕は自殺する!」
なるほど、それならばその格好にも納得がいく。
「そうか」
それだけ言うとノゾムは少年に背を向けた。今は他人に関わっている場合ではないのだ。誰かに襲われているのならともかく、などと考えて走り出そうとする。
「待ってって!」
少年が、更に大きな声でノゾムを呼び止めた。また立ち止まり、振り返る。
「なんだ。俺は急いでるんだ」
「ちょっと話を聞いてよ」
「時間がない」
「ちょっとだけ」
「早くしろ」
「早くするよ」
少年は一度咳払いをすると、放送部で鍛えた声で言った。
「僕は自殺する!」
「わかったって」
ただ一言そう返された少年は、朗々たる声で問い返した。
「……理由とか聞きたくない?」
「死ぬなら勝手にしろ。俺はもう行くから」
「ちょっと、あとちょっとだけ!」
「なんだ!」
「ちょっと待って。待ってて」
少年は、背後に持っていたロープの余りを取り出した。その一端を自分の首のロープに結び付けると、もう一端を輪っかにして、投げた。それは少年を吊るそうとする木とは別の木の枝に引っ掛かり、垂れ落ち、揺られ、ノゾムの首を輪っかに収めた。西部劇顔負けの縄投げである。
少年が自分の首にかかった輪っかを引っ張ると、ぐえとノゾムが声を上げた。それで輪っかが締まり、簡単には外れなくなってしまった。
「僕の縄と繋がってるから」
何とか呼吸を確保したノゾムは、ロープがはずせないことを確認すると、黙って少年を見た。二人の視線が交錯する。やがて少年が言った。
「君は、体重何キロ?」
ノゾムは唾を飲み、言った。
「……五十九キロ」
「僕は六十九キロ」
「……」
「……」
「飛び下りちゃおっかな」
「待て、早まるな!」
「大丈夫なのか、この計画」
ミノルのいないところで、ノゾムはイクトにそう訊ねた。
それにイクトは易々と答えた。
「成功率は低い。じゃなきゃ、列車を止めようなんて無茶は考えないって」
「本当に、成功の可能性はあるのか」
ノゾムの再度の問いかけに、イクトの表情が途端に真剣みを帯びる。
「じゃなきゃやるもんか。お前だってあると思うから協力しているんだろ。違うのか?」
「お前自身、本当は思ってるんじゃないのか。これは成功しない計画だと」
イクトは黙っていた。その沈黙を確認すると、ノゾムは言った。
「まあ、どうであれ、俺はお前たちと一緒にやるよ」
死ぬときは一緒だ、なんて安い言葉も浮かんできたが、流石に口には出来なかった。
「大体、なんで死のうなんて思ったんだ」
「つきあってた彼女に振られて、それ以来なんにもいいことがなくて」
「死んだって、いいことなんて何もないだろ」
「生きること自体、もう面倒で」
「今からでも生きがいを探せば」
「でもぼく、何もできないし」
「投げ縄とか、色々あるだろ」
「投げ縄を生きがいにはしたくない」
容易く論点が変化してしまうせいで、説得がまるで発展しない。
「大体、死ぬ気があるなら強盗なりなんなりすればいいだろ。こんなことしてる暇があるなら――」
ノゾムははっとして腕時計を確認した。集合時間は、いつの間にやら過ぎていた。
目を瞑り、呻き、腕時計を確認し直して大きな溜め息をつき、あーと言いながら空を仰ぎ見て嘘ーと言いながら腕時計で額を叩いた。
只ならぬノゾムの様子に、少年がおずおずと声をかける。
「あの、どうかしましたか?」
全てを諦めたノゾムは一言、打ち明けた。
「俺、強盗なんだ」
「え?」
「でももう逃げられない。ああ……もう、飛び下りて」
「ええ?」
「俺、もういいや。死ぬ。飛び下りて、早く」
手振りで少年に椅子から飛び下りるよう言うノゾム。
「い、いや、あの」
少年は戸惑いつつ、言った。
「し、死んでも、いいことなんて、ないですよ?」
ノゾムは笑いもせずにその言葉を聞いた。死ぬ気がないことはわかっていた。自分にも、相手にも、そんな気がないことは。
(4)
借金取りは、その拳銃は『ダイハード』や『ターミネーター2』で使われた銃なのだといった。そして強盗に失敗した強盗犯の話である『レザボアドッグス』という映画は傑作であると語ってからこう言った。
「映画とは全然関係ないが、強盗をするときに一番重要なのはどう逃げるかだ。金を奪うなんてのは誰でも出来る。特に今回は、支店長がこっちの味方だから問題は一つもない。が、そこからどう逃げるか。これが難しい」
イクトが黙っているのを見て、借金取りが説明を始めた。
「こっちで、足のつかない車を用意する。三台置いとくから、二度乗り換えろ。最後は俺たちの待ってるトラックに乗り込め」
「はい」
イクトは頷いた。つまりはそういうことだった。
トロッコに乗って、逃げる。自分たちに辛く当たった、この社会全てから逃げてやる。
イクトは近くに見える銀行の看板を眺め、ポケットのうちの拳銃に指を触れた。
だが実は――だが実は。だが実は、トロッコなどないのだ。用意できなかったのだ。
イクトにとってトロッコは夢と希望の乗り物だった。子供の頃に読んだ絵本や、テレビゲーム、遊園地のアトラクション、どれが原因かはわからない。だがトロッコは特別な乗り物だった。
トロッコに乗って逃げる、その計画自体に意味がある。例え実行するのが不可能であったとしても。線路の上を行くのが徒歩だったとしても。
イクトは、銀行に向かって歩き出そうとして、固まった。背後でどさり、という音が聞こえたからだ。
恐る恐る振り返る。するとそこには、借金取りよりも、警察よりも、強盗よりもやっかいな状況があった。見知らぬ女性が倒れていたのだ。それも、倒れて呻く彼女はお腹の大きな妊婦であった。
イクトは首を振り、銀行の看板を見た。ポケットの中の拳銃を見た。倒れている妊婦を見た。何度もそれらを見た。その間、誰も通りかかる様子はない。
ふいに、妊婦の呻きに言葉が混じった。
「あ……う……産まれる」
イクトは走り出した。全力で、妊婦に背を向けて走った。走りながら呟いた。
「公衆電話、どこだよ」
携帯電話は、近くの駅のゴミ箱に捨ててきていた。なにせその携帯電話は、借金取りから貰ったものだったから。だからイクトは公衆電話を探した。
「あった!」
見つけた公衆電話に飛びつき受話器を取ると、赤いボタンを連打する。誰かに繋がる。
「あ、あの、妊婦が倒れてる。……いやわからないけど、とにかく倒れてる。救急車は! そう……は? 隣町から? ふざけんな!」
受話器を叩き置いて、妊婦の元へと駆け戻る。妊婦はまだ倒れていた。傍に寄って肩に手を置き声をかける。
「大丈夫か。今、車連れてくるから待ってろ!」
「…………ん」
妊婦が頷くのを確認すると、また走り出す。汗が飛び散った。広めの通りに出る。だが平日の昼間で、車は少ない。それでも走ってきた車に向かって叫ぶ。
「おい! 妊婦が倒れ――」
車は走り去った。イクトは苛立った。次に来た車の前に、身体を放り出す。急ブレーキを踏んで車が停まった。
「妊婦が倒れてるんだ! ちょっと」
車内では音楽を盛大に鳴らしていた。イクトの声が届かない。クラクションを鳴らした。そのままイクトを迂回して進んでいこうとする。
ガツン、という音に、その運転手は窓を見た。そして驚いた。窓ガラスに銃口が押し当てられていた。銃を持つイクトは、泣きそうな顔をして言った。
「降りろ。いいから、降りろ」
その銃は、イクトに弾を抜かれていたが、迫力に変わりはなく。
(5)
廃工場の一角、長いこと使われていない線路の上。そこが、爆弾による世間の混乱の中、数千万を強奪した犯人がヤクザと警察に追われながら辿り着くはずの集合場所だった。
まずミノルがやって来た。爆弾と一緒に梅干を持って。生まれて始めての文通が獄中からになるのかと自嘲の笑みを浮かべていた。
次にノゾムがやってきた。なぜかロープを持っていた。先にいたミノルに、自殺未遂未遂というとどういう意味になるのだろうと言って混乱を買った。
それから大分遅れて、日が沈んだ頃にイクトがやってきた。まず「ごめん」と言った。ポケットには、拳銃の変わりにへその緒の入った木箱が入れられていた。出産に立ち会った感動が未だ抜けきらなかったが、とりあえず銃弾を抜いておいた拳銃はモデルガンと言えるらしいと言って一人笑った。
世間的にはなんの事件も起きなかった一日が終わり、昼間の曇り空が嘘のような、雲ひとつない晴れ渡った星空の下。結局の所、と線路の脇に並んで座る三人は思った。結局の所、誰もこの計画が上手く行くなんて思っていなかったのだ。むしろ、そう、全員が全員、失敗することを確信していたと言える。
でも面白い一日だったと、三人は自分の身の上に起きたことを語り合った。そして、それぞれ新たな友人を紹介することを約束しあった。まさかその友人たち同士が知り合いだとは夢にも思わなかったが。
一つだけ。トロッコは、あった。ミノルが来た時には既に、木箱のような、童話的なトロッコ列車が集合場所に佇んでいた。
イクトは少し驚いたが、まあ、そんなこともあるのかなと思うことにした。
今日このトロッコは生まれたのだ、自分たちの元に。そう思うことにした。